![本日は日本のベトナムへ来ました](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/0R0593029.jpg)
本日は高座渋谷(こうざしぶや)に来ました。渋谷? いえいえ、「高座」渋谷です。目的は高座渋谷駅にほど近い「いちょう団地」にあるベトナム料理店「タンハー」に行くため。ベトナムに行かなくても本場・本物以上に美味しいベトナム料理が味わえる、奇跡のようなお店があるのです。
日本屈指の多国籍街・いちょう団地へ
「いちょう団地」の存在を知ったのは、自転車に乗るようになってから。ちょっと走れば、西に丹沢山系、南に江の島がある「いちょう団地」は、傍目から見るとごく普通の高度成長期に立てられた団地です。
高座渋谷へ
![小田急線で高座渋谷へ|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/e30b80542a12c675b14ca7cda6717d63.jpg)
![高座渋谷駅からバスに乗ります|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/020486334e0c66a861ce39b556ebcd07.jpg)
一見普通に見える「いちょう団地」は、だがしかし、人種のるつぼ。住民の3割が外国人という、超多国籍地帯。国籍も多様で、実に24ヵ国からやってきた人たちが住んでいます(⇒出典)。
![目的地のいちょう団地に着きました|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/6a13010ae79b727d7d2aba31c1e8143f.jpg)
群馬県の大泉町のように、周囲に目ぼしい製造工場がある訳でもないこの場所に、なぜこれだけ巨大な多国籍団地ができたのか!? 誰だって気になるし、知りたくなるではないですか。
ボートピープルの街
「いちょう団地」が超多国籍化した背景。そこには、1950~70年代にかけて起こった東南アジアの一連の独立戦争と社会主義化の歴史がありました。
インドシナ難民がたどり着いた神奈川県大和市(いちょう団地)
![いちょう団地は通称ベトナムタウン|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/17bfaa7b5963951587734fde90c8a06d.jpg)
「いちょう団地」の多国籍な理由を調べたところ、すぐに出てくるキーワードが「インドシナ難民」と「大和定住促進センター」です。まず、「インドシナ難民」を調べますと、以下のとおり。
1975年、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)では相次いで社会主義体制に移行しましたが、新しい体制の下で迫害を受けるおそれのある人々や新体制になじめない人々がボートで海上へ逃れたり(ボート・ピープル)、陸路隣国へ逃れました(ランド・ピープル)。
インドシナ難⺠とは
これらの人々を総称してインドシナ難民といい、その総数は 約144万人に達します。その内約130万人がアジア地域の難民キャンプを経て、また、ボート・ピープルとして、アメリカ・オーストラリア・カナダ・日本などへ定住しました。
ボートピープルの定住促進の名残が現在に至る
![ボートピープルの名残がここに|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/39eb901585e847f8901c376ecd0bf11a.jpg)
そんなインドシナ難民、ボートピープルの人達を受け入れ、定住を促す活動を行ったのが、財団法人(当時)アジア福祉教育財団の難民事業本部が設置した「定住促進センター」でした。「定住促進センター」は1979年に兵庫県姫路市(96年閉鎖)に、翌80年に神奈川県大和市(98年閉鎖)の2ヵ所に設置され、閉鎖されるまでの20年間以上で、それぞれ2600人以上が入所したそうです。
インドシナ難民の定住受入れを決定した日本政府は、1979(昭和54)年7月、内閣にインドシナ難民対策連絡調整会議事務局を置いて、定住促進のための諸施策を推進することとしました。 同年11月、財団法人(現・公益財団法人)アジア福祉教育財団に事業を委託し、財団内に難民事業本部が設置されました。
難民事業本部の沿革
難民事業本部は、本部事務所に加え、日本へ定住を希望する人への日本語教育、健康管理、就職あっせんを目的として、同年12月、兵庫県姫路市に「姫路定住促進センター」を、翌1980(昭和55)年2月、神奈川県大和市に「大和定住促進センター」を開設しました。
で、この「大和定住促進センター」に近い場所にあったのが、今回訪れた「いちょう団地」であります。難民受け入れは国策であり、県営住宅ということもあって入居のハードルが低かったのが、外国人(特にベトナム人)が増えた理由だそう。
少し前まで(今も?)日本で急増していた、現代の奴隷制度こと技能実習制度で来日している海外の人達とは背景がやや異なるのが「いちょう団地」のデモグラフィーの特徴かもしれません。
本場ベトナムを超えたベトナムの味を神奈川で
「いちょう団地」に来ると、ほんと驚きます。どこからどう見ても、高度成長にボンボン建てられたごく普通の団地・・・に見えるのに、一歩踏み入れるとさまざまな言語の看板が目に飛び込んでくるのです。こんな場所、そして歴史があるなんて知らなかったなぁ。。。
そしてタンハーへ
![タンハーでベトナム料理をいただきます|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/73190b4985bfe3afc59be7b5242d7592.jpg)
日本の難民受け入れの現代史を「いちょう団地」でリアルに学んだら、さぁそろそろ晩ご飯の時間です。「いちょう団地」、いや神奈川県で、いやいや関東近郊で、それとも日本全体で、ここほど美味しいベトナム料理を食べたことがない。ひょっとしたら、本国ベトナムすらも超えてしまったかもしれない、美味しいベトナム料理を味わえるお店が、この「タンハー」なのでした。
![ベトナムの食材が所せましと並んでいます|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/2b09522fa96e9bfaec01375142e0d7ca.jpg)
![お店の雰囲気はベトナムそのもの|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/d4d1eb36026f8c64cce07d90b7c41944.jpg)
入ってみると、そこはまさにベトナム。店内の壁という壁に商品がズラリと陳列され、それに取り囲まれるように長テーブルが2列並べられています。
ベトナムを超えたベトナム料理
![ベトナムを超えたタンハーのベトナム料理](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/9R0593019.jpg)
![タンハーは、都内でも食べられない、ずば抜けた美味しさです](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/10R0593024.jpg)
私、こう見えてベトナムは短期間滞在したことがありまして、そこそこ現地の料理を嗜んでまいりました。当時学生だったこともあり、豪華高級宮廷料理などとは無縁で、もっぱらストリート専科。そんな頼りない経験のせいなのか、タンハーの料理がどれもこれも、日本で食べたどのベトナム料理よりも美味しいし、何ならベトナムで食べた本場の料理よりも美味しいかも(◎_◎;)
そう言えば、コロナ直前にベトナムに行っていて、おそらくコロナを持って帰ってきたかもしれない疑惑もありました(⇒参考記事①、②、③)。あのとき現地・本場で食べたベトナム料理より、タンハーのほうが美味しいと思うんだよな。。。ジャパナイズされているのかな!? どどど、どうなんだろう!?
そうだ、タンハー行こう
こんな美味しいベトナム料理を巨大団地のど真ん中で食べる不思議。そもそも団地って不思議な空間に思えますし、なんだかまるで小説の世界に迷い込んだような雰囲気です。
週末はぜひタンハーへ
![週末はタンハー行こう|Rollei 35S + Fomapan 400 Action](https://www.leica-travelogue.com/wp-content/uploads/a0c0795fe0f051fca762509d16208c25.jpg)
地元・神奈川にいながらにして、ちょっと日本を離れてみるのも悪くありません。ぜひぜひ今週末は大和市のベトナム、いちょう団地のタンハーへ。本場を超えた(!?)ベトナム料理をご賞味ください(*´ω`*)
コメント